会長 佐々木 茂
私達の住む津島地区は放射能汚染によって帰れぬ土地となりました。ふるさとへの思いは絶ち難く苦悩の日々を送っています。残された家族や風景を記憶遺産として何としてでも残したいとの強い思いと、放射能汚染が残したものを皆様に知って頂きたいと考えています。
今野 秀則(福島原発事故津島被害者原告団 団長)
私たちは家を中心に、地域にしっかりと足を付けて、人と人が助け助け合い、津島の歴史を紡いできました。自分はここで生涯を閉じるつもりでいましたが、突然に原発事故で遮られてしまいました。悔しさがこみ上げてきます。この懐かしいふるさとの風景が失われてしまう痛切さに、心が打ちのめされています。
三瓶 春江
私たち家族は4世代10人で暮らしていました。孫やひ孫との暮らしは、私たちの明るい灯火でした。幸せだった大家族も6ヶ所に分散し離散生活になりました。私たちのような原発事故被害者を二度と出さないために、津島で暮らしていた証しを残すためにも、みなさまに現状を知って頂きたいと思います。
今野 美智雄
故郷を追われて10年が過ぎ、異郷の地でとりあえずの仮の住まいで生活を送っています。そんな中でふるさとを「記憶」だけでなく「記録」に残そうと住民有志が立ち上がりました。津島のことを知らずに育つ子や孫に、津島のことを伝えていきたいです。
今野 千代
こんなにも辛く、苦しく、悲しく、寂しい避難生活。2011年の正月に、娘が孫を連れて帰省し、家族そろって楽しく過ごしたのが、わが家での最後の思い出となりました。時が経つにつれ、無念の想いは募る一方です。たくさんの楽しい思い出があります。「これが津島だよ」と子供や孫たちに伝えたいです。
武藤 晴男 (津島原告団事務局長)
なんでこうなってしまったのか、非常に残念です。誰に責任があるのか、決して諦めることはできません。無かったことにはできません。自分で取り戻せることができるなら、明日にでも取り戻したい。自分の手が届かないところに行ってしまった気がします。このやるせない心情をご理解戴ければ幸いです。
石井 ひろみ
自然の豊かさや美しさは勿論、将来もずっと途切れることなく繋がりあっていると思っていた人と人との絆、人情の豊かさがもたらす安心感。幼い頃から引っ越しを繰り返し、ふるさとを持たなかった私が、40年をかけてようやく手に入れたふるさとを奪われました。
窪田 美智代
一時帰宅するたびに、水田は柳の森になり、近所の家に木が生い茂り、母屋が見えなくなってしまっています。とても悲しく、悔しい思いでいっぱいです。荒れはてて行くふるさと津島を映像の中だけでも何とか残したいと思います。
佐々木 やす子
2011年、夫と次男を続けて病気で亡くしました。避難所を転々とする中で、夫の納骨もできず、四十九日も弔うこともできなく過ぎてしまいました。私にとってはつらい、つらい年でした。1日も早く家に帰りたい。夫と息子が待つふるさとに帰りたい。そして、自分が骨になる前に帰りたい。
志田 昭治
郷土芸能「津島の田植踊り」で鍬頭を努めました。10年も踊っていないから無理かなと思っていたけど、舞い始めると体が覚えていました。今の津島はあちこちで動物が飛び跳ねてるけど、いつの日か、ふるさとに戻って踊りたい。自宅の庭には、長男が生まれた時に植えた桜があります。満開になる頃に合わせて一時帰宅し、一人で花見をしながら懐かしんでいます。
窪田 たい子
ふるさとを思う。振り返ると数時間が過ぎていることもあります。やりがいのある畑仕事や、自営の仕事もできなくなりました。津島の自然、四季の美しさは素晴らしく、心に残る風景や思い出がいっぱいあります。だからまた、ふるさとを思います。
佐々木 加代子
野田 雅也 (写真家・映画監督 / Media Labo ノダグラ代表)
津島の方々の「ふるさとを映像の中にだけでも残したい」と願う強い想いに心を動かされてこのプロジェクトを始めました。「昔に戻れる瞬間」を形にすることができれば嬉しいですね。50年後、100年後でも、子孫たちが心のふるさとに戻り、人と人とが繋がりあって生きる津島を再生して欲しいと願っています。
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「ふるさとを返せ ! 津島原発訴訟」 原告団・弁護団
地区全域の放射線量の低下を求めるとともに、これまで「ふるさと」から切り離されてきたこと及び適切な情報提供を行わなかったことによる高濃度の放射線被曝に伴う健康不安に対する慰謝料を国と東電に請求しています。2020年中に結審を迎え、2021年3月に判決が下される予定です。
「change.org」オンライン署名 のお願い
一日も早くふるさとに帰れるよう、公正な判決を望みます!あなたの一筆が、裁判官の心を動かす原動力になります。ぜひ、ご賛同・ご署名をお願いいたします。